長善寺は浄土宗西山禅林寺派(総本山永観堂禅林寺)に所属する寺院です

長善寺は開山は永正16年(1519)です。

撮智立公上人(さっちりゅうこうしょうにん)により、現在の東郷町にある檀林(だんりん)祐福寺(ゆうふくじ)の塔頭(たっちゅう)として建立されました。


その後、寛永年間(1624~1645)に西境村の念佛信仰者の懇願により、西境の地(現在の場所より西に1㎞ほど、酒井神社の南)に移転してきました。

しかし、移転地は境川の川沿いであり、たびたび川の氾濫に遭い、堂宇も湿気によって朽ちてきたことから延享2年(1745)長善寺第9代 待空文敲上人(たいくうぶんこうしょうにん)によってに現在の地へ移築されました。

現在の本堂は文政10年(1827)に長善寺第12代道空準倫上人(どうくうじゅんりんしょうにん)代に再建されたもので、平成4年に大修理を行ないました。

2019年、現住職第22代兆空一堂代に開山500年を迎えました。

500年の長きに渡り、法然上人とその高弟西山證空上人の教えを受け継ぎながら、お念仏の法灯を掲げ続けています。

長善寺第20世、鑁空観堂上人(ばんくうかんどうしょうにん)は檀林祐福寺第63世貫主、総本山永観堂第86世法主に挙がられ、宗門並びに長善寺の興隆に大きく寄与されました。



参考「明和の水害」~長善寺移転と前山の始まり~

長善寺の現在地への移転と前山地域の始まりがわかる資料を紹介します。

明和4年(1767)7月10~12日の3日間に渡る大雨は、洪水となって境川・草野池の土堤を破り、流水は多数家屋を浸し、溺死する者は全部で13人を出したという前代未聞の惨事であった。
これがため長善寺は、水害の翌年、明和5年(1768)30数軒の民家とともに前山の地へ引っ越してきた。
これが前山地域の始まりとするのが通説で、このことは長善寺の碑に記されていると聞き、人々もそのように信じている。

さて、先年、長善寺墓碑を調べていた際、次のことが判明した。
同寺墓地西側の僧侶の墓碑がある。その中央に待空文敲上人の墓碑がある。
待空上人は長善寺を酒井神社の前から現在の場所へ移転させた人で、長善寺中興開山と仰がれる僧である。
この墓碑に彫られた銘文は、待空上人自選にかかり、長善寺移転の事情が記されている。原文は漢文で32行、292文字の長文であるから、その大意を次に掲げることにした。

長善寺が寛永年間に西境へ移ってから長い歳月が過ぎ、柱も土台も朽ちてしまった。これは地面が境川に近く、湿りやすいためである。地面の乾燥した場所へ移るのが一番良いということになり、幸い檀徒の中野重兵衛という人が、400余坪の土地を寄附された。
壇徒も坊さんも一生懸命に工事を進めた結果、延享2年(1745)無事に完成した。

それから20年余り経って、明和4年秋、流水が氾濫して村へ流れ込んだ。これがために人家が流され、多くの人が死んだ。その災害の怖ろしさは言葉に言い尽くせぬものがあった。この水害に懲りた人達は、湿気の少ない高い土地を求めて、30余軒が長善寺の周辺へ引っ越してきた。 下略

というのであって、長善寺が明和4年の水害に遭ったために前山へ移ってきたのではなく、既に明和の水害の22年前の延享2年に移転していたのであって明和の水害に遭っていなかったことがよくわかるのである。
こうした立派な証拠がある以上、従来の誤った伝承は是非とも訂正して頂きたいと思うのである

佐藤峻吉 「西境の昔話」昭和52年1月発行 より